
70周年にちなんだ70のエピソード
オートリブは2023年で70周年を迎えました。それに合わせて、オートリブの歴史にまつわる70のエピソードを順次ご紹介しております。これからも引き続き当社のビジョンである「より多くの命を守る」ため、自動車をはじめとしたモビリティの安全ソリューションを提供していきます。

1. 2人の兄弟
1. 2人の兄弟
オートリブのルーツがスウェーデンの小さな町、ヴォーゴーダにあるのをご存知でしたか?
この町でレナートとスティグのリンドブラッド兄弟が1953年に小さな自動車会社を設立しました。事業は芳しくなく、兄弟は別々の道を歩むことにしました。しかし、レナートは、自動車産業で下請けとして働きたいという思いが固く、シートベルトの製造を始めます。レナートは妻の安全に対する不安から、シートベルトに着目することになりました。最初のベルトは、牡牛の首輪に、地元の織物業者が生産した一番頑丈なナイロンを使用した工業用ベルトを組み合わせたものでした。
Image:レナート(左)とスティッグ(右)リンドブラッド、1978年
2. Gränges
2. Gränges
見方によっては、オートリブのルーツは1937年にまで遡るのをご存知でしたか?
1937年はアルミニウムメーカーのWedaverkenが創業した年です。1965年のある日、2人のエンジニア兼投資家のカールソンとスウォーンがWedaverkenを訪ねます。2人は航空宇宙産業での経歴があり、ベルトリトラクター(シートベルトを巻き取る装置)の特許を取得していたのですが、それが同社参入のきっかけになりました。のちにWedaverkenとオートリブは同じGrängesグループに属し、お互いの製品を補完しあうことになります。
Image:1977年 Gränges Weda製のリトラクター
3. モートンASP
3. モートンASP
アメリカの会社Morton ASPが、今日のオートリブの礎を築いているのをご存知でしたか?
オートリブとMorton ASPの2社は、1997年に合併。オートリブと同様、Morton ASPにも長く興味深い歴史があります。Morton ASPは、1900年代中頃にロケット燃料の製造を始めた大手化学メーカーグループの一部でした。この事業を礎にその後、Morton ASPがパイオニアとなるエアバッグの開発を始めました。
Image: 1977年Morton ASP製ロケットの写真
4. Stil-Industrier
4. Stil-Industrier
レナート・リンドブラッドの兄スティグは、兄弟が別々の道を歩み始めた後、新しい会社をスタートさせたのをご存知でしたか?
この会社は、Stil-Industrier(「Stil」はスティグのイニシャル)という名で、レナートが製造するベルト用の金属部品を作っていました。兄弟は密接に協力しあい、スティグの活動と創意工夫がオートリブの発展に大きな影響を与えることになりました。スティグは一か八かやってみるタイプだった一方、レナートはより慎重なタイプでした。2人の弟のカール=エリクもStil-Industrierで働き始め、生産に必要な新しい道具を開発する力を持っていたことから、会社で重要な役割を果たしました。4番目の弟のスヴェン=オロフ氏も同社で働き始めます。Stil-Industrierは、2つの会社のうち大きい方でしたが、2社ともお互いに支えあうようになりました。
Image: ヴォ―ゴーダにあるStil-Industrier社施設内の様子、1970年頃
5. 自動運転車
5. 自動運転車
初めての自動運転車は、早くも1990年後半にオートリブが試験を行ったのをご存知でしたか?
もちろん欠点もありましたが、将来に向けた展望がありました。しかしオートリブが本格的に「アクティブセーフティ」として知られるようになる技術に取り組み始めたのはその後何年もたってからでした。アクティブセーフティは事故を未然に防止するシステムであるのに対して、パッシブセーフティとは、衝突時に車両内の乗員を守るシステムのことです。
Image:社外の人々を守るパッシブセーフティ(衝突安全)の例
6. 水素を使ったエアバッグ
6. 水素を使ったエアバッグ
ヴォーゴーダにあるオートリブの事業所が、従来の技術よりも環境に優しく安価である水素を使ってエアバッグを膨らませる手法を2012年に開発したのをご存知でしたか?
この手法は素材の重さを約20%もカットすることができる新技術です。一緒にすると化学反応を起こす水素と酸素、そして圧縮不活性ガスをエアバッグに充填することで、火薬使用時と変わらない速さで膨らませるうえ、副産物は少量の水のみです。つまり他の手法の時のような灰や残留ガスが残らないということです。
Image:前列座席の最新のエアバッグ
7. ヴァッテンフォール
7. ヴァッテンフォール
シートベルトのパイオニアの一つが、スウェーデンの国有電気会社のヴァッテンフォールだったのをご存知でしたか?
1950年代初頭、この会社は労働災害よりも交通事故で死亡する人の方が多いという事実への対応をし始めました。ヴァッテンフォールはそれまでに電柱からの落下事故を調査しており、そこから安全装置の開発につながりました。ただ社員は業務に車を使用していたため、そのことも調査するようになり、「ヴァッテンフォール型」と呼ばれる2点式シートベルトのモデルの開発に至ります。このシートベルトの製造許可を得たのが、Lindblad Autoserviceでした。
Image:Klippanとスウェーデンのヴァッテンフォールによるテリヘン製Sベルト
8. レナートの最初の特許
8. レナートの最初の特許
レナート・リンドブラッドの最初の特許は、わりと単純な開きボルトだったことをご存知でしたか?
車のBピラーに取り付けるものでした。その後も、彼は多くの特許や発明を世の中に送り出しました。2016年には、シートベルトの開発と精緻化の取り組みに対してプールヘム賞を受賞しました。プールヘム賞は、技術革新に関するスウェーデン最古の賞で、スウェーデン学位技術者協会から授与されます。
Image:2016年にプールヘム賞を受賞したレナート・リンドブラッド
9. ルノー
9. ルノー
ルノーがLindblads Autoservice (後のオートリブ)製シートベルトの最初の大口顧客だったのをご存知でしたか?
自動車販売業界での元競合相手が助言してくれただけでなく、さらにルノーにつなげてくれたのです。レナート・リンドブラッドはストックホルムに行ってルノーと商談し、ルノーはその後、試験的にシートベルト4,000本を発注。そこで、製造拠点をレナートの祖母宅の屋根裏から、より適した施設に移転することになりました。
Image:1962年車の展示会でのLindblads Autoservice
10. Klippangruppen
10. Klippangruppen
Lindblad Autoservice ABが、1950年代、60年代にシートベルトに投資したスウェーデン唯一の会社ではなかったことをご存知でしたか?
他にも後に「Klippangruppen」で知られるクリッパンのBröderna Ottoson & Coが1956年に、自社の馬具店でヴァッテンフォール向けに2点式ベルトの製造を開始しました。クンゲルフのEvert Larsson Industriも1963年に参入します。様々な会社が、2点式ベルトの欠点(運転手が滑り出る可能性があること)に対し、航空宇宙産業から着想を得た3点式ベルトの様々なアイディアを持って挑戦しました。この会社(Klippangruppen)は、1963年にボルボが全ての商品でシートベルトを標準装備した時にボルボに実際のベルトを納品しています。
Image: ドイツ・レリンゲンのAutoflag。Autoflagは後にオートリブが買収。
11. ボルボ
11. ボルボ
ボルボは、車の標準装備としてシートベルト、特に3点式ベルトを導入したパイオニアだったのをご存知でしたか?
ニルス・ボーリンはシートベルトを開発したボルボのエンジニアでしたが、実際のコンセプトを生み出したのはボルボではありませんでした。シートベルトは既に存在していたのです。ファールンの医師スティグ・リンドグレンは、「ヴァッテンフォール型」シートベルトを開発したヴァッテンフォール安全対策チームの医療顧問を務めていたことがあり、ボルボの取り組みにおいても重要な役割を果たしました。彼は医師として、交通事故の多くの事例を見てきました。ボルボは、スウェーデンの別のクルマメーカーであるサーブとともに、車の安全性においてスウェーデンが国として明らかにリードすることに大きく貢献しました。
Image:オートリブとKlippanによる2種類のモデルの3点式シートベルト。「Giugiaro」は「Noramale」と同様でしたが、特殊なモダンなラインが入った高価な布を使っていました。
12. 3点式シートベルト
12. 3点式シートベルト
2点式ベルトでは滑り出てしまう危険があることを分かっていたレナート・リンドブラッドは、3点式シートベルトを早くから提唱していたのをご存知でしたか?
しかしクリッパンのBröderna Ottosson & Coが1957年に3点式シートベルトの特許を申請し、1961年に承認されました。1965年にLindblad Autoservice ABが、Bröderna Ottossonの申請以前にサーブのラリーカーが3点式シートベルトを使用していたことを証明できると、特許は無効になりました。
Image:Klippannとオットソン兄弟による1953年ハーネスベルト。Klippannは後にオートリブと合併。
13. AutoLIV and Life
13. AutoLIV and Life
1960年代に入り、レナート・リンドブラッドは社名をLindblad AutoserviceからAutolivに変更したのをご存知でしたか?
「liv」(英語で「life(命)」)は「life(命)」と何らかの関係があると思う人もいるかもしれませんが、実際は全く関係ありませんでした。以前から営業活動時に「Lindblad’s in Vårdgårda(ヴォーゴーダのリンドブラッド)」の略語として「LIV」を使っていたのです。
Image: 1960年頃のオートリブの3点式ベルト
14. パイロット レナート・リンドブラッド
14. パイロット レナート・リンドブラッド
レナート・リンドブラッドはパイロット免許を取得し、飛行機を持っていたのをご存知でしたか?
ヴォーゴーダからドイツの会社への出張には、自分で飛行機を操縦していました。実はこの飛行機はフロイド・パターソン戦で世界タイトルを獲得したスウェーデン出身のボクシング世界王者のインゲマル・ヨハンソン(愛称:インゴ)から買い取ったものでした。
Image:1972年レナート・リンドブラッドの飛行機、Piper Aztec SE-EOZ
15. 「エッセムルーレン」リトラクター
15. 「エッセムルーレン」リトラクター
レナート・リンドブラッドは1975年に自分の会社オートリブをGränges Wedaに売却したのをご存知でしたか?
Gränges Wedaは巨大なGrängesグループの一部で、このグループは長年、大手鉄鉱石算出業としての地位を占めていましたが、当時は既に「非鉄金属」を扱う複数の事業体からなるコングロマリットへと成長していました。1969年、GrängesはSvenska Metallverkenを買収して、Wedaをグループ傘下に収めました。Wedaは、いわゆる「エッセムロール」というシートベルトのリトラクターを製造していたため、オートリブの事業は戦略上重要な補完事業となっていたのです。
Image:1967年有名な「エッセムルーレン」リトラクター
16. 安全に対するアメリカの考え
16. 安全に対するアメリカの考え
クルマの安全性は、1960年代までアメリカでは特に課題になっていなかったことをご存知でしたか?
1965年に、若き弁護士ラルフ・ネーダーが世界的ベストセラーとなる『いかなるスピードでも自動車は危険だ(Unsafe at any speed)』を出版すると、同書は、シボレー・コルヴェアに対する批判でよく知られるようになりました。しかし、ネーダーはアメリカの安全性に対する価値観そのものをも批判したのです。この非難により、厳格な製造物責任と多額の罰金が今後生じるかもしれないと気付いたクルマメーカーのリスク評価が変わりました。保険会社もこの問題に関心を示しました。自動車事故は、毎年500億ドルの損失を社会にもたらしていると言われていたのです。1966年に、アメリカ合衆国議会が新たに「米国運輸省道路交通安全局(NHTSA)」を設立し、当局がこの問題を管轄することになりました。
Image:ラルフ・ネーダーの写真
17. パイロットのためのシートベルト
17. パイロットのためのシートベルト
航空宇宙産業がシートベルトのパイオニアだったのをご存知でしたか?
衝突や死亡・負傷事故の多さから、管轄当局は、本格的な生体力学的研究に取り組み始めました。その一例が、ニューヨーク北部のコーネル大学でのCIR(衝突傷害研究)です。この大学で、パイロット用シートベルトに関する初の研究が1953年に発表され、その研究結果は多くの注目を集めました。
Image:1966年ドイツでのKlippanシートベルトPRに参加する無名スタントマン。Klippanは後にオートリブと合併
18. 「衝突安全の父」
18. 「衝突安全の父」
ハンガリー出身のエンジニア兼発明家のベラ・バレニーは、「衝突安全の父」とよく言われていたのをご存知でしたか?
彼は、衝突時の安全確保のための車の構造の大切さに着目した最初の人物でした。彼は、「デフォーメーションゾーン」
早くも1930年代に)や「コラプシブルステアリングコラム」、「ノンデフォーマブルパッセンジャーセル」を考案し、その全てが保護性能の向上につながりました。1994年、バレニーは「自動車殿堂入り」を果たしました。
Image:1965年ドイツでのKlippanシートベルトPR。Klippanは後にオートリブと合併。
19. なぜシートベルトを着用しなかったのか?
19. なぜシートベルトを着用しなかったのか?
当時シートベルトは多くの傷害や事故を防ぐことができたのも関わらず、多くの人がシートベルトを使いたがらなかった理由をご存知でしたか?
その理由の一つが、シートベルトのせいで体の動きが制限されると感じたからです。例えば、シートベルトを着用したままだとグローブボックスに手が届きにくかったことが挙げられます。こうした問題が、巻き取り式シートベルトという新たな発明へとつながりました。1964年には既に、英国のBritaxとKlippan GmbH(スウェーデンのKlippanグループのドイツ子会社)が急ブレーキを踏んだ際に作動するリトラクター付きベルトを開発。英国のKangolも同様のベルトテンショナーを製造していました。同じ時期に、スウェーデンの都市ハルムスタッドを拠点としたNyhems Mekaniskaが「セーフ(Safe)」というリトラクターを発売しました。
Image:1964年式Klippan・Britax社製リトラクター
20. Grängesの狙い
20. Grängesの狙い
Grängesは1972年に、北欧でトップのオートマティックシートベルトの一括請負メーカーとなり、加えて英国と西ドイツでも重要なポジションを築くことを目標に掲げたのをご存知でしたか?
しかしこの戦略は実現できず、代わりにGrängesは、真のシートベルトメーカーとフルサービスサプライヤーになるため、1975年にヴォーゴーダを拠点としたベルトメーカーのオートリブを買収します。当時、全生産の5%にあたる、5,000個の「エッセムロール」と呼ばれるリトラクターが同社に既に納品されていました。
Image:1975~1976年オートリブ社製シートベルト生産施設内部の様子
21. エレクトロラックス
21. エレクトロラックス
オートリブは、かつて家電の多国籍企業であるエレクトロラックスの一部だったのをご存知でしたか?
1980年、エレクトロラックスがオートリブを含むGränges全体を買収したのですが、オートリブはグループ内ではどちらかというと異質な存在だったため、非常に独立した役割を与えられました。
Image:9年後に開催されたヨーロッパでの展示会の様子、撮影者不明
22. AMCA
22. AMCA
1970年代後半、オートリブは買収を通じて急成長したのをご存知でしたか?
収益は6年で60%以上増加。この買収の一つが、フランスの会社AMCAでした。AMCAの買収により、フランス市場におけるオートリブのシェアが10%から16%へと増加しました。
Image:フランスの施設でのステアリングホイール(ハンドル)製造の様子。1970年代頃、撮影者不明
23. Evert Larsson Industri
23. Evert Larsson Industri
1979年に競合相手であるEvert Larsson Industriを買収したことで、ついにオートリブはスウェーデンの自動車メーカーのボルボとの取引の足掛かりを得たのをご存知でしたか?
それ以前のオートリブの顧客は、海外の自動車メーカーでした。
Image:1959年のボルボ自社製V型安全ベルトの装着時の様子
24. グンナー・バーク
24. グンナー・バーク
1980年代から90年代にかけて、オートリブが実現した大きな功績の立役者だったグンナー・バークは、スウェーデン国立防衛研究所のリサーチエンジニアとしてキャリアをスタートさせたのをご存知でしたか?
彼は、のちにオートリブの社長兼CEOをなんと3期も務めています。
Image:オートリブとMorton ASPが合併した1997年のグンナ―・バーク
25. 諮問委員会
25. 諮問委員会
オートリブが、1984年に諮問委員会を立ち上げたのをご存知でしたか?
委員会は現在も存続しています。諮問委員会のメンバーには、世界的名外科医で交通安全学教授のバーテル・アルドマンなど、スウェーデンの国内外で活躍する交通安全学や自動車工学、生体力学(つまり、人間の体がどんな力に耐えられるか)の専門家や研究者が名を連ねました。
Image:1999年の諮問委員会
26.ヨーロッパの広域展開
26.ヨーロッパの広域展開
ヨーロッパにおける広域展開が1980年代初頭に始まったのをご存知でしたか?
オートリブは、次第にヨーロッパのトップサプライヤーとなり、マーケットの約半数近くのシェアを獲得しました。スペイン、イタリア、フィンランド、イギリスの会社などを買収し、さらにアメリカでも買収を試みましたが、落札競争で競合相手に負けてしまいました。
Image:1987年の会社組織図
27.ドイツの試験場
27.ドイツの試験場
1990年に、オートリブはドイツ・ダッハウに試験場を設立したのをご存知でしたか?
これは、BMWからの強い要求によるものでした。ダイムラーとオペルに勤めた経験があるドイツの名エンジニア、ディタ―・シャーパーがこの試験場に所属しました。シャーパーは後に、「weisswurst」という特殊なサイドエアバッグを開発しています。
Image:BMWの現代のサイドエアバッグ。2010年に撮影
28. Eurobag
28. Eurobag
1990年代前半に、オートリブが独自のエアバッグを開発したのをご存知でしたか?
「Eurobag」という名前で、アメリカのエアバッグよりも小さく、ヨーロッパで標準となっていたシートベルトと合わせて使用するように設計されていました。EurobagはEuroflatorと革新的な完全織布のクッションで構成されていました。この革新的な技術はどちらもオートリブのグループ会社が開発したものです。Eurobagにより、オートリブのエアバッグ売り上げはたった数年で飛躍的に伸びました。
Image:エレクトロラックスーオートリブ「Eurobag パッセンジャーモジュール」1993年、60L助手席エアバッグ
29.AlliedSignal
29.AlliedSignal
エレクトロラックスは、アメリカの大手企業AlliedSignal社へのオートリブ売却の準備を進めていたのをご存知でしたか?
1990年代前半に、Eurobagが成功をおさめた後のことです。しかし、オートリブ幹部はこの取引が特に魅力的と思わず、結局取引は成立しませんでした。
Image:1990年代エレクトロラックス/オートリブ/Klippanの施設内の様子 『Electrolux Autoliv』社内誌掲載の写真
30.オートリブメキシコ
30.オートリブメキシコ
1990年代前半、オートリブはメキシコでの製造を開始したのをご存知でしたか?
日本のNSKとともに、合弁会社「NSK-Autoliv」を立ち上げ、ティフアナに工場を新設しました。1991年9月、アメリカ市場向けの自動車用電動式シートベルトをメインに生産が開始しました。
Image:メキシコ・ティフアナの工場。2013年に撮影。撮影者不明
31.ユタでのロケット試験
31.ユタでのロケット試験
Thiokol(後のMorton Thiokkol)がアメリカのユタ州に落ち着いたのは、この無人の砂漠地帯がロケットの試験に最適だったからなのをご存知でしたか?
1950年代中頃のある日、会社の代表たちがユタ州に赴き、その可能性を模索しました。若い農家の息子だったケン・ホルムグレンは、プロモントリー(Promontory)とブリガム・シティ(Brigham City)の間を走る道路にたった1件だけ酒場があり、そこにきっと代表たちが足を止めることを知っていたため、彼らに会うために酒場に向かいました。後はご存知の通りです。
Thiokolはその地に拠点を構え、ホルムグレンは後に社長、そしてMortonとThiokolの合併後にはMorton ThiokolのCEOに就任しました。
Image:アメリカ・プロモントリー地域。1990年~1994年の間に撮影。撮影者不明。
32.モートンのガス発生器
32.モートンのガス発生器
Morton Thiokolは1970年代初めには、既にエアバッグ用ガス発生器の大手メーカーだったのをご存知でしたか?
ガス発生器の開発は、ロケット燃料を扱ってきた当社の歴史に根付くものです。ここから、エアバッグ全体の製造へと発展していきます。1989年、会社は2つに分割され、Morton ASPが自動車安全市場に特化することになります。
Image:エアバッグ内の点火装置。2014年に撮影。撮影者不明。
33.日本におけるモルモン教徒
33.日本におけるモルモン教徒
日本市場におけるMortonの成功には、モルモン教徒の社員が大きく貢献していたのをご存知でしたか?
ユタ州には、布教活動中に日本語と日本文化を学んだ、教養が高く言語に精通した男性が多くいたのです。こうした特性が、会社に高い競争優位性を与えました。
Image:1994年ユタ州の社員たち。撮影者不明
34.オートリブの新規株式上場
34.オートリブの新規株式上場
1994年6月9日にオートリブが株式を上場したのをご存知でしたか?
これによりエレクトロラックスグループを脱退し、独立企業となりました。新規株主の大部分は海外の資産運用会社でした。最初の1年で株が60%も値を上げたので、彼らにとっては良い買い物と言えましょう。
Image:この広告写真はオートリブが上場したのと同じ1994年に公開。撮影者不明
35.インフレ―タブルカーテン
35.インフレ―タブルカーテン
1995年5月に、オートリブのエンジニアたちが顧客のメルセデスに全く新しい革新技術を紹介したのをご存知でしたか?
この発明は、一部、オートリブの研究部門長ユングヴィ・ハーランドによる側面衝突に関する研究結果をもとにしたものでした。側面からの衝撃に対して保護するこの画期的技術は、「インフレ―タブルカーテン」と呼ばれ、大成功しました。この技術は多くの命を救い、重傷を防ぎ、オートリブのその後の開発において大きな役割を果たしました。
Image:ユングヴィ・ハーランドと「インフレ―タブルカーテン」の試作品。1990年代に撮影。撮影者:レナート・リーンマイン
36.女性の土木技師
36.女性の土木技師
女性の土木技師がオートリブの生産システムの原動力の一つであることをご存知でしたか?
1990年代後半、リサ・フラリーがいわゆるトヨタモデルをオートリブに導入すべく尽力しました。
Image:リサ・フラリー(1990年代)
37.オートリブとMorton ASP
37.オートリブとMorton ASP
オートリブとMorton ASPが1998年に合併した時、それは異例の成功を収めた合併だったのをご存知でしたか?
ユタ州とヨーロッパの従業員は、難なくチームとして結束して協働することができました。
Image:1991年Morton国際HYGEインパクトスレッド施設の建設
38.元CEO ラース・ウェスターバーグ
38.元CEO ラース・ウェスターバーグ
1990年代終わりに、オートリブの競合他社から積極的な価格圧迫を受けたのをご存知でしたか?
当時の新CEOのラース・ウェスターバーグの課題はコスト削減でした。これにより生産は、高品質を維持できる低コストの国に徐々に移されるようになりました。
Image:元CEO ラース・ウェスターバーグ(1999年)
39.ステアリングホイール
39.ステアリングホイール
2000年代初頭に、ステアリングホイールが重要な製品になったのをご存知でしたか?
顧客はエアバッグがすでにステアリングホイールに組み込まれている完全なシステムを求めていました。そのため、オートリブはこの分野でいくつかの買収を行いました。
Image:エアバッグ内蔵ステアリングホイールの例(2006年頃)
40.電子機器1
40.電子機器1
1990年代後半から2000年代初頭にかけて、電子機器がますます重要な分野になったのをご存知でしたか?
とりわけ、オートリブはサーブの子会社であるスウェーデンのCombitechとのコラボレーションを開始し、フランスのSagemを買収しました。
Image:サーブ9000エアバッグの最終製品(1991年)
41.中国のオートリブ
41.中国のオートリブ
オートリブが中国で製造を開始したのは、1980年代半ばからだったことをご存知でしたか?
しかしこれが実際に成功したのは、2000年代初頭になってからです。上海のウェビング工場は当時世界最大の規模を誇っていました。
Image:南京、上海の施設のオートリブスタッフ(1990年)
42.持続可能な未来
42.持続可能な未来
オートリブが2008年から2009年にかけての金融危機で大きな打撃を受けたのをご存知でしたか?
人員の約25%を解雇せざるを得ませんでした。しかし比較的早く回復することができました。
Image:その当時のCEOは持続可能な未来創造のため、人員を大幅に削減するという困難な課題を抱えていました。
43.スウェーデンで最もグローバル化した企業
43.スウェーデンで最もグローバル化した企業
ラース・ウェスターバーグがCEOを務めていた頃、オートリブがおそらくスウェーデンで最もグローバル化された企業となったことをご存知でしたか?
売上高の53%はヨーロッパ、24%は北米、残りの23%はその他の地域でした。現在では生産の半分以上がメキシコ、中国、ルーマニアなどの国々で行われています。
Image:ハンガリーのオートリブ施設(2021年)
44.アクティブセイフティ
44.アクティブセイフティ
オートリブは1990年代までにアクティブセイフティの新規分野ですでに世界的リーダーとなっていたことをご存知でしたか?
地図上で車の方向を設定したり、レーダーを使用して遠くの危険を検出したりする電子システム等、様々な製品を発表しました。最初の「自動運転」車は、1990年代後半までに既にオートリブが試験していました。
Image:パイロスイッチPSS1は電気安全ソリューションの例です。自動車事故の場合、エアバッグ制御装置またはBMS(バッテリーマネジメントシステム)によって作動し(危険性のある回路を即座に遮断し)、乗員や救助者を保護することができます。これらは2004年から使用されています。現在ではより最新のモデルがあります。写真は2017年のものです。
45.日本においても大きな存在となったオートリブ
45.日本においても大きな存在となったオートリブ
2000年代に入ってから、オートリブにとって日本がますます重要な市場になったのをご存知でしたか?
驚くほど早く日本においても自動車安全で大きな存在となり、すぐに日本市場の20%を占め、日本が世界中で販売している車両のかなりの部分を占めました。日本の完成車メーカーは世界の自動車生産量の35%を占めています。
Image:現在の筑波事業所の受付
46.メキシコのオートリブ
46.メキシコのオートリブ
メキシコは、世界のどの国よりも多くの従業員がいることをご存知でしたか?
2000年代、メキシコに多くの工場が建設されました。2022年、オートリブはメキシコで15,000人以上の社員を擁していました。次にルーマニアが約1万人、その次が中国で9,000人弱の従業員を擁しています。
Image:メキシコ サンティアゴ・デ・ケレタロのオートリブ施設(2021年)
47.初の女性取締役
47.初の女性取締役
オートリブが、2011年に初の女性取締役を迎えたのをご存知でしたか?
中国生まれで、ドイツで高度な技術学位を取得し、ゼネラルモーターズを中心にグローバルな自動車産業で長年キャリアを積んできたXiaozhi Liu博士。
Image:Xiaozhi Liu博士(2022年)
48.金融危機
48.金融危機
オートリブは、2008年から2009年の金融危機の間に、将来を見据えた重要な買収を行ったことをご存知でしたか?
アメリカのエレクトロニクス企業であるタイコ エレクトロニクスのレーダーセンサー部門の買収でした。
Image:ボンネットリフトは、自動車事故の衝撃時に使用されます。ボンネットエッジを上げると、ボンネットの内部構造への衝撃が低減され、頭部の怪我を減少させます。写真は2008年のボンネットリフター2。
49.1P1P
49.1P1P
品質を確保すると同時にコストを削減する方法が、製造工程を標準化することであったことをご存知でしたか?
そのため、2013年にオートリブは1P1P(1つの製品、1つの工程)と呼ばれるものを導入しました。その典型例として、中国江蘇省の火薬(推進剤)工場があります。これはアメリカ ユタ州プロモントリーのものと全く同じものです。
Image:ユタ州のエアバッグ工場(2019年)
50.中国の火薬(推進剤)工場
50.中国の火薬(推進剤)工場
オートリブが、2013年中国に火薬(推進剤)の新工場を建設した際に、アメリカユタ州のプロモントリーにある工場と全く同じものにしたのをご存知でしたか?
オートリブは、プロモントリー工場と同じサプライヤー、同じ図面、全く同じ配置を採用したのです。成功の秘訣となったのが、プロモントリーと中国の従業員間の技術・知識移転でした。また、この事業は当時のオートリブ史上最大の投資でもありました。
Image:2013年中国江蘇州火薬(推進剤)工場の落成式にて喜ぶ面々
51.2011年の大幅な回復
51.2011年の大幅な回復
自動車産業が2008年~2009年の不況後、2011年に大幅回復を遂げたことをご存知でしたか?
この年最高記録となる7,200万台もの車が製造されました。オートリブにとっても、現在までで最高の年になりました。
Image:2010年代、オートリブは製品開発に多額の投資を実施。こちらは、ユタ州の従業員2名がシートベルトの耐久性・抵抗力を試験している様子。
52.電子機器2
52.電子機器2
2000年代初期に電子機器の重要性が高まったことで、この分野でいくつもの買収が行われたことをご存知でしたか?
その1つ目が、2002年に行われたフォードから分社化したVisteon Restraint Electronicの買収です。
Image:PSS1(バッテリーディスコネクトスイッチ)はECUによって作動する装置で、スタータージェネレーターケーブルを電子システムから分離させるために使用します。
53.オートリブの株式
53.オートリブの株式
2008年~2009年の不況時、オートリブは事業を回復させるために、株主からより多くの出資を必要としたことをご存知でしたか?
結局それにより、オートリブの株式のより多くが、スウェーデン企業の所有となり、アメリカ企業の所有分が少なくなりました。
Image:2008年~2009年の不況時、オートリブは協力関係の新たな概念を生み出しました。
54.Q5
54.Q5
2008年~2009年の不況後、オートリブアメリカで品質問題が発生したことをご存知でしたか?
これを受け、当時のCEOのヤン・カールソンが主導して、「Q5」という品質に関する考え方が導入されました。Q5とは、品質を五角形で象徴する5つの重要な側面で考えるというものでした。五角形の面は、それぞれ組織の行動、成長、顧客、製品、サプライヤーを表していました。プログラム導入のため、大規模なトレーニングと情報周知が行われました。
Image:五角形で視覚化した品質に関する考え方(現在のロゴ)「Q5」
55.初めてのサイドエアバッグ
55.初めてのサイドエアバッグ
初のサイドエアバッグは、1994年にボルボ850に供給開始されたことをご存知でしたか?
これにより、ボルボが世界に先駆けてこの新技術を提供することになりました。さらに、サイドエアバッグは販売面で大成功をおさめました。2012年までに、オートリブはこのタイプのエアバッグを5億個供給しました。
Image:1994年、サイドエアバッグの広告写真。
56.2012年自動車業界の危機
56.2012年自動車業界の危機
2012年、大規模な経済危機のたった4年後に、欧州の自動車産業で再び壊滅的な風潮が広がったことをご存知でしたか?
ほぼすべての車メーカーが生産規模縮小か欧州の工場の閉鎖に踏み切りました。オートリブも生産カットを実施しましたが、それでもグローバル展開をしているおかげで売上増を図ることができました。
Image:1990年代または2000年代初期のオートリブのグローバル展開と市場優位性を表したビジュアル
57.チュニジアのステアリングホイール
57.チュニジアのステアリングホイール
ステアリングホイール生産は、革巻きステアリングホイールの需要が高まった2000年代初期にチュニジアで始まったことをご存知でしたか?
アジアのお客様は、革の美しい見た目を強調する太いステッチが入ったステアリングホイールを求め、一方ドイツのお客様は、完全になめらかなステアリングホイールを求めました。
Image:デザインの好みは国ごとに差がありました。アジアではこちらの2022年の写真にあるような、皮にステッチ入りのものが好まれます。
58.アジ化ナトリウム
58.アジ化ナトリウム
1990年代中頃、オートリブは環境に有害な物質であるアジ化ナトリウムを含まない新燃料を開発したことをご存知でしたか?
当時開発された基本配合と同じものが現在も使用されています。
59.CPV
59.CPV
オートリブの業績の強力な牽引力の一つは、安全機能の車両ごとの搭載量(CPV)が増加していることだというのをご存知でしたか?
しかも、この数値は世界のあらゆる地域で増加しています。2012年、インドにおける安全機能搭載量の金額は合計約60米ドルでしたが、10年後には100米ドルにのぼりました。北米では、平均CPV金額400米ドルで2022年に搭載量1位になりました。
Image:オートリブインドは2016年に新施設を開設し、起工式を開催。
60.トルコとイギリス
60.トルコとイギリス
オートリブが生産拠点をイギリスからトルコに移転した際、多くの従業員がトルコから来英して数カ月かけて事業を学んだことをご存知でしたか?
ラインが後日トルコに移転した際には、多くのイギリスの従業員がコーチとして帯同しました。皆今でも、それ以来連絡をトルコやイギリスの人のことを話します。
Image:協力関係がオートリブ全部門の重要な要素です。写真はユタ州。
61.オートリブの本社
61.オートリブの本社
オートリブの事業のほとんどが世界各国に展開するようになっても、本社はまだストックホルムにあることをご存知でしたか?
本社がいわゆる中立地帯にあることは、利点だと考えられています。
Image:スウェーデン・ストックホルムにあるオートリブ本社でのカーテンエアバッグの展示
62.過去最多の車の生産台数
62.過去最多の車の生産台数
2017年に、過去最多の車(9,200万台)が製造されたことをご存知でしたか?
新型コロナウイルスのパンデミックにより、長年徐々に右肩上がりだった製造数が急落しました。オートリブについては、2020年に本業の売上が12%も下落しました。
Image:オートリブのテディベア。いつも通り後部座席でシートベルトを締めて座っていますが、コロナ禍ではマスクをつけていました。
63.ルーマニアのオートメーション
63.ルーマニアのオートメーション
ルーマニアに、工業用ロボットにより稼働しているカーテンエアバッグの全自動生産ラインがあるのをご存知でしたか?
Image:2021年、オートリブのCEOミカエル・ブラット(左)と会長ヤン・カールソン(左)がルーマニア工場の外でタイムカプセルを埋設。
64.中国のロックダウン
64.中国のロックダウン
オートリブは、中国の大規模なロックダウン中に中国の人材に対する大規模な投資を行い、高く評価されたことをご存知でしたか?
従業員は、希望すれば会社の構内に居住することができ、新鮮な空気が吸える外に出て、アパートに隔離されるよりも普通の社会的交流ができました。
Image:ロックダウンに備える中国の従業員
65.Veoneer
65.Veoneer
オートリブは2018年にエレクトロニクス分野の事業を分社化したことをご存知でしたか?
この分社時に、Veoneer社が設立されました。予防安全と衝突安全の分野は全くかけ離れた存在になっていました。また予防安全における技術開発は多くの資本や経営力を集中させる必要があり、衝突安全の技術開発に影響があったのです。
Image:Veoneerとなったエレクトロニクス部門の分社化を示したオートリブの2017年アニュアルレポート掲載の写真
66.モビリティの安全へ
66.モビリティの安全へ
オートリブは、2018年のVeoneer分社化以来、「モビリティの安全」に注力してきたことをご存知でしたか?
その中には、歩行者だけでなく、自転車、あらゆる種類の自動二輪車の運転者など、交通の中のあらゆる個人を守るソリューションが関わっています。
Image:オートリブの自動二輪車用エアバッグシステム(Bag-on-Bike)はセンサーに加えECUアルゴリズム、インフレ―タ搭載エアバッグモジュールを装備。
67.気候変動対策
67.気候変動対策
オートリブは、2021年に長期的な気候変動目標を定めたことをご存知でしたか?
自社のオペレーションで2030年までにカーボンニュートラルを達成し、2040年までにサプライチェーン全体でネットゼロ・エミッション実現を目指します。オートリブは業界で初めてこうした目標を掲げました。
68.さらに多くの命をこれからも守るために
68.さらに多くの命をこれからも守るために
オートリブは、交通安全を向上しより多くの命を守るため、各国の大学、研究機関、当局と数多く協働研究を行っていることをご存知でしたか?
その例が、中国・スウェーデン交通安全研究センターとスウェーデン・インド交通技術革新研究プラットフォーム(SITIS)です。オートリブはまた、Future Occupant Safety for Crashes in Cars(OSCCAR)やEnable New Occupant Seating Positions(ENOP)、Proactive Safety Systems and Tools for a Constantly Upgrading Road Environment(SAFE-UP)に参加し、研究の取り組みに貢献しています。さらにマレーシア道路安全研究所(Malaysia Institute of Road Safety Research:MIROS)と交通弱者や自動二輪車の安全に特化して共同研究を行っています。
Image:2022年にはオートリブの製品が約35,000人もの人命を救い、450,000人以上の重傷を防いでいます。さらに多くの命を守ることがミッションです。